愛の行為そのものだと思うのだが。

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「女は生まれつきボトム(受け身)だけど、ボクはトップになったり、ボトムになったり、相手によって変わるんだぜ〜」と先日、ゲイマンの誰かが私に言った。
博士課程のブラジル人の男性だったか思い出せない。

正直、変われてうらやましいと思う。

カールくんは最初イタリア人の弁護士に「トップ」になって、それから「ボトム」になったと教えてくれた。
もっと俗ぽっく言えば、「やって、やられた」のである。
セックスにおいて役割を交換できる。
それはお互いペニスがある男性同士の愛の行為だからこそ可能だ。

ジャッキーの今の彼はトップなので、ボトムだが、前の彼はボトムだったので、
トップだったと教えてくれた。

カールくんもジャッキーもどっちもOKなversatile(バーサトル)だ。
ビルは絶対トップで、クリスは絶対ボトムでトップには絶対なれないと言っていた。
クリス曰く「トップになろうとすると(挿入しようとすると)萎えちゃう〜」。

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ストレートの男友達に聞くと「絶対、挿入されるのは考えれない」と言う。
しかし、例外もある。
私の女の知人(ストレート)のボーイフレンド2名は知人女にストラップ・オン(日本語で言うところのペニス・バンド)をつけて、お尻に挿入して欲しいとお願いされたという話をそれぞれ別のカップルだが聞いた。
私は男性がバイセクシャルか、クローゼットのゲイではないかと本人には私は言わなかったがそう思った。

話を戻すが、ストレートは「絶対、挿入されるのは考えれない」と言うが、ゲイガイズの中には
挿入しても挿入されてもOK!という方々いる。
なんと柔軟なんだろう!

セックスは愛の行為ではあるが、その前に基本的には女性にとっては我が子を孕むための生殖行為である。
精子を受け入れないと何も始まらない、生まれない。
そうやって我々は生を授かり、この世に誕生した。

私は女だから、男性を受け入れることは疑問もなく、本能的に受け入れてきたが、
ある時、疑問を持った。
射精でセックスが終わるのは、セックスが生殖行為だからで、「精子を受け取った」ということで終了する。
しかし、同じ性同士で、しかも受精がないゲイマンのセックスは「愛の行為」そのものだと思った。

愛の行為そのものだと思うのだが。」への5件のフィードバック

  1. かかしさん

    ご友人と深い愛情で結ばれていることが分かりました。
    すばらしい!

    『私に身体と生活を共有するパートナーがいた場合に、自分に同じことができるだろうかというところで疑問を感じるからでしょうか。』

    ストレートの女性の場合、夫もしくは恋人がいて、女の大親友がいる・・・ということなのかなぁと思いました。
    私は女の親友に愛情を感じて、破綻することが多々あります。

    ニューヨークタイムズ・マガジン、気合いを入れて読んでみようと思います!

  2. セックス=生殖活動、という考え方の根底には、sexuality/sexを伝統的な、male/ femaleというカテゴリーで理解するモデルが横たわっていると思います。だからそこから出発する限り、heterosexual以外のあらゆる性的な表現が「逸脱」としてくくられてしまうのでしょう。

    生殖行為でない=愛の行為といえるかといえば、でも、そうでもなく。愛がなくてもsexual activityはいくらでも成立するわけで。欲望としてのsexと愛情表現としてのsexの関係は、微妙でむずかしいですね。愛がなくても欲望は満たせるし、愛があっても必ずしも欲望が満たされるとは限らない。理想的には、愛と肉体的欲望が合致することなのでしょう。

    先日お送りしたNew York Timesの記事はそういう面で興味深かったです。男性の性的欲望は、心と身体の反応が素直に比例しているけれど、女性の場合、そういう実験結果がどうしても得られないそうです。

    以前にstraightの(男性の)友人に言われたことは、私と(私のゲイの)友人がすさまじいケンカをした後に、仲直りのセックスが成立しない(性的に合致する相手だったら往々にあるパターン)のが「大変だよね」ということでした。なるほど~と妙に感心した記憶があります。まぁでも、ケンカをしてすべてがすっきりするわけではなくても、そこまで感情的に相手にぶつかっていけるという確認が、相手を互いにより深いところで受け入れているという確認にもなっているように感じます。(話がずれていますね)

    私などは、この性的な関係が不在な濃い人間関係の方に興味があるのですけれど。いったい何なんだ?・・・といつもそこに思考が戻っていきます。もっといえば、パートナーがいてなおかつ、それほど濃い人間関係を求め、持っていられる友人を不思議に思うというか。愛情と性ということを考える上で示唆に富んでいるというか。私に身体と生活を共有するパートナーがいた場合に、自分に同じことができるだろうかというところで疑問を感じるからでしょうか。

    この間も向こうの家に泊まっていて、夜遅くまで二人で飲んでいてちょっとした諍いになったのですが、そのときに友人に「僕たちは互いなしには生きられない。相手を傷つけることはそのまま自分を傷つけることだ」といわれて。「おお、深い愛情表現だね」と内心感心したり、「なぜそこまで強いstatementをいえるのか?」と不思議に思ったり。

    いえいえ、話がすっかり逸脱しました。

    つまり性的表現が、最高の愛情表現であって、それが愛を測る尺度なら、その外に位置する愛情はどうなるのかなぁ・・・ということなのでした。

    長くなってごめんなさい。

  3. akiさん

    「もしかしたら」かもしれませんね〜。

    でも、ゲイの方が言ったおりましたが、お尻の穴が好きなわけではなく、ペニスが好きなのだそうです。

  4. 玲さん

    深夜の書き込みありがとうございます!

    「女性の性欲には男性(ペニス)でしょ!」ですよね〜!

    日本だから「曖昧」にしても生きられる・・・そうかもしれませんね。アイデンティティーを確立して、世間にさらけ出す必要はないですからね。でも、家庭を持ちつつ、世間体を気にして、セックスの相手を探すって大変なことではないかなぁと思いましたが、ストレートの夫には風俗もあるし、ゲイにはゲイの風俗があるし、男向けのセックス・サーヴィスはなくなることはないなぁ〜、という方向に行ってしまいました。

  5. 愛の行為・・・かぁ。
    >私は女だから、男性を受け入れることは疑問もなく、本能的に受け入れてきたが・・・・

    そういうものだと思ってしてきたって感じがありますよね・・・。
    その人が好きっていうより、女性の性欲には男性(ペニス)でしょ!みたいな感じでしょうか?
    まぁ実際、男性と(性行為を)して挿入がないと物足りない感じがするんですけど(小さいより大きい方が良いし・・・^-^)。

    ちょっとゲイセックスとは違うんですけど、以前の彼氏が下(女性上位)が好きだった事を思い出しました。
    万事受身な女性的な感じの方でしたけど。
    実際、日本にも潜在的なゲイ(自覚の乏しい人)は結構いるんじゃないのかと思いました。
    あまりセックスに興味のない男性で、趣味に没頭しがちで、男友達と年中つるむ人(男性とセックスはなしで)って、家庭があっても結構いますよね。

    カップル単位の行動があまり求められない国だし、自我確立や個人の意思も欧米程求められないので、意外と曖昧なまま過ごせるのかもしれないなぁなどと思いました。

    個人と親しくなって、男性と女性に対して似たような感情を持っても相手が男性だからセックスをするし、女性だからしないっていうただそれだけって事も多いのではないでしょうか?

    女性相手でも、快楽の刷り込み(経験値とか)のようなものがあれば欲情するのかもしれませんね・・・・。

    と、深夜の書き込み失礼しました~~

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